教会de哲学カフェ
原則として毎月第4木曜日の夜に「教会de哲学カフェ」を開催しています。
参加者全員が気持ちよく、安心して対話を楽しめるようにと設定したルールのもとで、

キリスト教とは関係なく、あらかじめ設定したテーマに沿って、自由に語り合うカフェ形式の気楽な集いです。
哲学用語や専門知識は必要ありません。興味のある方はどなたでも大歓迎です。
おしらせ
次回の「教会de哲学カフェ」は、2026年 1 月 22 日 (木)19時−20時30分に開催します。テーマ 『 「 自分の言葉 」とは 』 参加費300円
前回の「教会de哲学カフェ」の様子
第 73 回 11 月 26 日 に開催しました。テーマ 『 >「 死 」について語ってみよう 』


第 72 回 10 月 23 日 に開催しました。テーマ 『 >「 推し 」はありますか? 』

第 71 回 9月 25日 に開催しました。テーマ 『 「 行き違い 」について考える 』


第 70 回 7月 24日 に開催しました。

第 69 回 6月 26日 に開催しました。


第 68 回 5月 29日 に開催しました。
第 67 回報告 2025年 4 月 24 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 よりよく生きるとは 』
4月24日、磐上教会哲学カフェ第67回を開催しました。今回は定員を超える14名の参加者があり、初めて参加される方が2名おられました。いつにもまして盛会となりました。

今回のテーマは「よりよく生きるとは」。普遍的なテーマです。世界保健機関(WHO)憲章前文において「健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態(well-being)にあることをいいます。」と定義されているように、「よい」とは諸条件が充足した状態とみなされています。「よい状態とは何か」を巡っていろいろな意見が出されました。不安がなく安心して生きられること。「良くない状態」を避けるようにする。マイナスなことがなければそれでよし。親の介護が始まって自分の人生がつまらない毎日になってしまった気がする。人生の意味ってなんだろう。しかし「人生に意味がある」と考えると苦しくなるから、あまり深く求めすぎずに楽しく生きるのがよく生きること、なのか?

生きる意味について考える視点からは、自分の意志や理念を持って生きること、自己決定権を持つこと、目的をもって生きる、一日一日を良く生きること、何が「よい」生き方かは人それぞれ異なる、などの考えが出されました。
「よりよく」とはどういうことでしょうか。単純に考えれば現状より進歩・向上するということになりますが、「一歩前に進む」ことは「少しだけ進めれば十分」なのかもしれない。無理しないでほどほどに。しかし現状維持だけだといずれ行き詰まり不幸になる。
自分にとってよりよく生きるとは、人から恨みを買わない、人を恨まない、過去を悔やまない(過去の自分を恨まない)こと。愚痴を言わないで、感動することを見つける。より楽しく生きる。「推し」の野球チームが勝つと嬉しい。ボランティアで独居高齢者の話を聴くと、自分の好みをしっかり持っていて、健康や一人暮らしに不安を抱えながらも自分のしたいように生きていて、それがよい生き方なのかも。ぽつんと一軒家で蚕を飼いながら一人暮らししている高齢者。ほどほどに不安を持ち、愚痴も言いながら生きて行けたら、よい生き方だと思う。
病気の診断で余命宣告を受け、その年限を超えてきた。今日一日を生き延びることに勝利を憶える。若い頃は自分のためによりよく生きたいと考えて自分勝手な時もあった。30代を過ぎ子を育てながら生きるうちに、社会で人のために役に立ちたいと思うようになった。Well-being には身体的な健康のほかに霊的な充足もある。
他人から「よりよく生きなさい」と言われると反発を憶える。他人と比較せずに今の自分に満足・納得できるのがよい。「以前よりよい」ではなく「ずっとよい」。現状を肯定できること。好奇心を満たす。同級生の結婚が嬉しくないなど他人の幸せを喜べないのは心が狭いのか。人は元々他人の幸福を喜べないのが普通。自分がまず幸せであって初めて他人の幸福を喜べる。自分と関係が悪かった人が自分の知らないところで勝手に幸福になっていてくれると助かる。自分への欲がまだあるが、年齢と共に自分の立ち位置を主役から脇役に移していく。金を貸した相手が宝くじに当たると嬉しい。見返りが期待できる?
そのほか、「何を幸福と感じるか」をめぐって、幸せをお金に換算すると、犬を飼っている人の幸福は年収1500万円に匹敵する、とか、ペットを看取った高齢のおばあちゃんの幸せ、人の心がわかる、人に感激できること、など色々な話題や意見が出ました。
幸福感はワクワク感や高揚感を前頭葉が快感として感じること(和田秀樹医師)なので、高齢者ほどそれを活性化させてよく生きるべき。自分の可能性があること。「もう少しやってみよう」と思う体験を積み重ねる。人生でいろいろ選択してきたが、思っていたのとは違うところに連れて行かれたのが良かった。そんな意見がある一方で、自分の手綱を自分でコントロールできない(他人から管理されて生きる)のは辛い。自分の裁量が利かない職場はしんどい。だから自己決定権を持つのがよい生き方だ、という意見もありました。また、生きるとはメメントモリ、死を思って生きることであり、それがよりよく生きることだと思う。
などなど、時間内では話が尽きないほど参加者皆さんからさまざまな考えが語られました。参加者のお話をきいていて、私の感じたことを、以下に書きます。
まず、よりよく生きることは根源的な問題であり、ソクラテスの『クリトン』以来、哲学の根本的課題として問われてきたことでもあります。
今回の語り合いの中で出て来たWHO憲章前文の“well-being”や、また日本国憲法13条「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、……最大の尊重を必要とする」という思想の源流を遡ると、近代哲学のヘーゲル『法の哲学(法哲学要綱)』にたどり着きます。

人間が「より善く生きる」とは、自由な意志にもとづき人間が真に自由になることであると言うヘーゲルは、『法の哲学』で、人間は生まれながらに自由なのではなく、人格を陶冶して自由になるための人間の生き方、行為のあり方を論じ、よりよく知ることが、より善く生きることであり、「より善く生きる」ことは、夢と希望(理念・理想)をもって、それに接近していくことだと言います。そのためには夢と希望の対象となる客観世界について、必然性を認識する普遍的自由と、対象を必然性によって変革する概念的自由が求められ、「人間らしくより善く生きる」とは客観世界のあれこれの特殊的世界ではなく、人間と社会という普遍的世界を対象にした普遍的自由と概念的自由を探究することだとヘーゲルは考えます。自己の内面に人間の真にあるべき生き方(人間の概念的自由)を定立し、それに向かって前進する義務を課し、より自由になろうとするところに道徳の必要性があります。そこからへーゲルは「人間らしくより善く生きる」ことは、たんに個人の内面の問題としては解決されないと考え、社会的存在としての人間はより善い国家・社会をつくることを抜きにしては善く生きることができない、とします。『法の哲学』の最終到達点は国家論であり、これが、社会体制や制度によって人間はいかにして「よりよく生きる」ことができるかを追求する憲法13条幸福追求権などの思想の源流です。ヘーゲル哲学は「より善く生きる」ことを弁証法的対立物の統一としてとらえる進歩主義に基づいており、人間個人の「良い生き方」の上に理想的国家を置き、個人は国家という目標に向かって進歩するべき存在なのです。ただ、こうした発想が近代思想のひとつの源流であるのと同時に、やがて「個」より「全体」を上位に考える20世紀の全体主義(トータリタリアニズム、ファシズムや共産主義体制)に帰結した、という負の側面を看過することはできません。個人がよりよく生きるという問題は、ヘーゲル哲学の道徳倫理思想では拾いつくせないものがあるのです。
よりよく生きることは幸福を求めることであるとして、では幸福とは何か?個人の人生においては、客観的に不幸と思える状況の中にさえ幸福を見出すこともあります。私は今回の哲学カフェのテーマを考えながら、堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読んでいました。
結核を病み八ヶ岳のサナトリウムに入院し療養する節子と彼女に付き添う婚約者(主人公)が、やがて来る愛する者の死を覚悟し、それを見つめながら、二人の限られた日々を強く意識して、共に生きる恋愛物語です。節子の病は重篤で、サナトリウムに入ってから一年も経たず死ぬのですが、迫りくる死を予感し二人で過ごす日々の中で、主人公(堀辰雄)と節子は、不幸の中にある本当の幸福を確かに感じているのです。
「…私達はそれらの似たような日々を繰り返しているうちに、いつか全く時間と言うものからも抜け出してしまっていたような気さえする位だ。そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私達の日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つが今までとは全然違った魅力を持ち出すのだ。私の身辺にあるこの微温(なまぬる)い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手を取っているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、−そう云ったものを若し取り除いてしまうとしたら、あとには何も残らないような単一な日々だけれども、−我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ。そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信していられた。それらの日々に於ける唯一の出来事と云えば、彼女がときおり熱を出すこと位だった。それは彼女の体をじりじり衰えさせて行くものにちがいなかった。が、私達はそういう日は、いつもと少しも変らない日課の魅力を、もっと細心に、もっと緩慢に、あたかも禁断の果実の味をこっそり偸(ぬす)みでもするように味わおうと試みたので、私達のいくぶん死の味のする生の幸福はその時は一そう完全に保たれた程だった。」
「おれ達がこうしてお互いに与え合っているこの幸福、−皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、−そう云った誰も知らないような、おれ達だけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ。」
主人公が節子と軽井沢で知り合った頃、主人公がふと口をついて出た「風立ちぬ、いざ生きめやも。」という言葉がこの小説の題名になっています。それはポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の最後の一節「Le vent se leve, il faut tenter de vivre.」を堀辰雄がそのように訳したものですが、ヴァレリーの原文は、英語に訳すと「The wind is rising, you should try to live.」つまり「風が起きた、(お前は)生きることを試みねばならない」という意味であり、体に吹き付ける強い風が心を高揚させ、「生きてやるぞ!」との決意を促す詩句です。堀辰雄の訳の「いざ生きめやも」は「やも」が反語を表す助詞なので現代語に訳すと、「生きるのかなあ。いや、生きないよなあ」のような意味になるため、「風立ちぬ、いざ生きめやも。」はヴァレリーの詩の訳としては間違っているという指摘が昔からあります。しかし、堀辰雄はおそらく誤訳は承知の上で、「Le vent se leve, il faut tenter de vivre」をそのまま原文に忠実に「風立ちぬ、いざ生かむ」とか「風立ちぬ、いざ生くべし」と勇ましく訳すのではなく、確実に近づく死という不幸の中に敢えて見出す生の幸福を、微妙な反語的表現「生きめやも」によって表したのかもしれません。
「『私が此処でもって、こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの?(中略)……でも、それから漸(や)っとあなたのいつか仰しゃったお言葉を考え出したら、すこうし気が落ち着いて来たの。あなたはいつか私にこう仰しゃったでしょう、−私達の今の生活、ずっとあとになって思い出したらどんなに美しいだろうって……』彼女はだんだん嗄(しゃが)れたような声になりながらそれを言い畢(お)えると、一種の微笑ともつかないようなもので口元を歪めながら、私をじっと見つめた。彼女のそんな言葉を聞いているうちに、たまらぬほど胸が一ぱいになり出した私は、しかし、そういう自分の感動した様子を彼女に見られることを恐れでもするように、そっとバルコンに出て行った。そしてその上から、嘗て私達の幸福をそこに完全に描き出したかとも思えたあの初夏の夕方のそれに似た − しかしそれとは全然異(ちが)った秋の午前の光、もっと冷たい、もっと深みのある光を帯びた、あたり一帯の風景を私はしみじみと見入りだしていた。あのときの幸福に似た、しかしもっともっと胸の締め付けられるような見知らない感動で自分が一ぱいになっているのを感じながら……」
このような、真に生きようとする人間が不幸の中に幸福を見出したとき、それが「よりよく生きる」ことだと言えるのではないか。今回のテーマでそんなことを私は考えていました。今回もとても有意義な時となり、参加者の皆様に心より感謝申し上げます。次回は5月29日(木)夜7時からの予定です。
2025年4月29日 成田いうし
第 66 回報告 2025年 3 月 27 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 人との距離感について 』
3月27日(木)、磐上教会哲学カフェ第66回目を開催いたしました。今回は参加者12名と満席となり、また書面でテーマについてコメントを送ってくださった方もありました。今回のテーマは「人との距離感について」でした。

人間関係で、適度な距離というのはあるのか?人と親しくなるコツは何か?親しい仲にも礼儀あり。親しさは実際に会う頻度と関係が無く、毎日のように会う人よりもたまにしか会わない人のほうが良い友人だったりする。同僚と一緒に食事をしたりゴルフをしたりして近づきになる。他方、社交が苦手な人もいて、自分と人との間に境界線を引くと安心する。何かに誘われても「 今日は見たいテレビ番組があるから帰る 」と言える関係が程よい距離。いわゆる「 ハリネズミのジレンマ 」は、近づきすぎると互いを傷つけるが、試行錯誤しながら程よい心理的距離感を図ること。愛情飢餓は相手の気持ちを考えず自分の期待を相手に投影するから距離感がおかしくなる。 「 嫌だ 」と思う人からは離れる方が良い。などなど、他者との関係に距離を置くことを巡っていろいろと語り合われました。
人間関係の距離を置くということからの連想で、人が自分から離れて行く場合について、こんな話も出ました。「 来る者は拒まず、去る者は追わず 」とよく言いますが( 孟子の言葉 )、これを美徳だと思っていたら、世の中には「 去る者は追わず 」ということを「 良くない 」ことだと思う人が結構いるので驚いた。そう思う人の理由は、去って行った人を追って再び関係を保とうとしないことが冷たい、不親切だと感じるかららしい。これをめぐっての意見で、仮に去られる側に問題があるとすれば、その人が去って行った原因を検証して改善すべきことを考える、という発言がでました。他方、去る者を追いかける人というのは、去られた事が悔しいからであり、去ったその人のためと思って追いかけているつもりが、実は自分の承認欲求が満たされず傷つけられたと感じるから追いかけるのだという意見もありました。病院のセカンドオピニオンの例を出して、自分のもとを去って( 他の病院に )行った人は、自分( こちらの病院 )にとっては残念に思うかもしれないが、去ることによって経験が耕された結果、その人にとってより良い選択ができたと考えられるとの見解も出ました。そのほかにも、去った者を追いかけることが親切とは限らず、相手を放っておけることも大事。時間をおいて後で関わりを再構築することはできる。それが出来そうにない相手はそもそも追うべきではない。あるいは、自分の経験から言って去る者を追って帰ってきたためしがない、という発言もあり、去って行った相手に未練を持たず、別れた後は自分磨きをする方が良い。などなど、無理に関係を続けないで距離を置くことの有効性についていろいろ語られました。
親しい関係であっても一定の距離感、境界線をおくことによる相互の緊張がうまく作用することがあります。Boundary( 境界 )は「 自分とは何者か 」を表わすためのものであり、他者と関わるときには自分の境界にある「 跳ね橋 」を下ろして通路とする。相手と距離を置きたいときは跳ね橋を上げればよい。飼い猫が自分に関わってくる仕方から適切な距離感を学んだ。などの発言が出たいっぽう、人間関係を縮める勇気は必要だ、という意見も出ました。
参加した皆さんの話は縦横無尽で尽きることなく、非常に活気に満ちた話し合いとなりました。今回のテーマ「 人との距離感 」は、直感としてまず間隔を置く、離れることというイメージがありますが、本来、「 距離 」という言葉は、漢文読み下し風に訓読みすれば「離れを距( ふせ )ぐ」と読み、近づくことを意味します。主体と他者との距離の問題を哲学で考えたのはマルティン・ハイデガー( 1889-1976 )です。日本の京都学派の哲学者、九鬼周造( 1888-1941 )の『 ハイデガーの哲学 』( 『 人間と実存 』 所収 )から引用すると、

「 現存在的空間性は二つの性格をもっている。距離( Entfernung )と定向( Ausrichtung )とがそれである。第一の性格である距離とは「 離(はな)れを距(ふせ)ぐ 」ことである。すなわち接近させることである。距離とは世界内存在としての現存在の在り方の一つであって、離隔を意味するのでもなければ況(ま)して間隔( Abstand )を意味するのでもない。距離と離隔と間隔との相違は現存在的空間性と帰向存在的空間性と直前存在的空間性との相違を最もよく特徴づけている。距離とは離れを距ぐ、離隔を無くす、近づけるというように能動的、他動的意味をもっている。現存在は距離的であるのである。離隔は環境世界における帰向存在者の空間に見出されるもので、距離に即して評価が可能のものである。間隔は直前存在的空間に見出されるもので、計量されることのできるものである。直前存在する事物のいわゆる「 客観的 」な間隔は、帰向存在者の離隔とは一致しない。我々に最も近いところのものは我々から最小の間隔をもっているものではない。最も近いものは或る遠さにおいて離隔されているものである。現存在は距離の仕方において本質的に空間的であるから、その交渉はつねにある離隔をもって自身から離れている環境世界の中にあるのである。従って間隔的に最も近いものは看過されるのが常である。眼鏡をかけた者が壁の絵を見ている場合、眼鏡と絵とのいずれが彼にとって近いか。眼鏡は間隔的には甚だ近いが、道具として環境的には壁の絵よりも遥かに離れている。眼鏡のごとき道具は往々最初には見出せないほど近さを欠いたものである。およそ環境的に最初に帰向存在するものの遠近を決定するところのものは回顧的配慮である。配慮が宿るところのものが最も近いものである。それ故に現存在の此処(ここ)ということは環境的な彼処(かしこ)ということから会得される。現存在は自己の空間性によって先ず最初に彼処(かしこ)にあって、然る後に此処(ここ)へ戻って来るのである。換言すれば、現存在は距離をつねにもっている。その意味で現存在は空間的である。すなわち現存在はその出会う存在者に対してつねに距離的である意味で空間的である。 」
哲学者ハンナ・アーレント( 1906-1975 )は『 人間の条件 The Human Condition 』で人との距離の取り方の問題を公共領域における政治行動においてとらえました。古代ギリシアのポリスのような公共領域で人と人が交渉することを、テーブルのイメージを用いて、テーブルという一定の距離をおくことで互いが向き合い対話できると考えました。アーレントはナチズムやスターリニズムなど20世紀の全体主義の考察を通して、全体主義による支配で人が公共領域における他者との対等な関係を構築できなくなり、全体主義の同調圧力により個人が自分で何もものを考えなくなる危険について警鐘を鳴らしました。人は本来、孤独( solitude )において自己内対話( two in one 自分の中のもう一人の自分と語ること )を通して自分を吟味し、周りに流されずにものを考えることができる。全体主義は個人から孤独の機会を奪い、ものを考えないようにさせる。孤独( solitude )は孤立( isolation )と異なる。孤立とは人間関係や社会関係から追放されることであり、それに対して孤独とは、全体主義の支配から身を守り、再び公共領域で他者との対等な関係を構築できるように自己内対話によって自分でものを考える機会を作るため、一時的に人間関係や社会関係と距離をおくことである。
今回のテーマは、嫌いな相手や自分に絡んで来る相手、SNS上でトラブルになった相手と距離をおくことのような、「 他人との距離感 」について様々に語られたほか、夫婦関係、身内、そして恋愛関係などの「 近い相手との距離感 」の難しさについても語られましたが、まだまだ話したい雰囲気で時間が足りなくなりました。

最後に私は恋愛においての距離感について、D.H.ロレンスの長編小説『 恋する女たち 』( 1920年 )について考えていることを話しました。中部イングランドの炭鉱町のブラングェン家の姉妹アーシュラとグドルーンの恋愛模様を描いた小説で、妹グドルーンは炭鉱の資産家の跡取り息子ジェラルドに一目ぼれして彼女から近づいて恋愛関係となります。姉アーシュラは士官学校の視学官バーキンに心を惹かれますが、当初バーキン( 作者ロレンスを投影した人物 )の標榜する理想の恋愛の思想について行けないものを感じて距離を置きそうになります。しかしやがてアーシュラはバーキンの人間性に惹かれ次第に愛情へ発展し二人の距離は縮まっていきます。いっぽうのグドルーンは、早くからジェラルドと恋愛関係になったものの彼の身勝手な愛情欲求に嫌気がさし、もともと美術教師を目指していたグドルーンはドイツ人の彫刻家レルケと恋に落ちてジェラルドのもとを離れます。ジェラルドは最初はグドルーンのほうから接近してきた関係でしたが、自分のもとを去ったグドルーンに未練があり「去る者を追う」のです。これはジェラルドの中で相手の男とグドルーンと両方への憎しみしか生まず、結果的に悲劇をもたらすことになります。人間関係の距離の取り方、縮め方について二組の恋愛を通して色々考えさせられる小説です。
今回も参加者皆さんが自由に気兼ねなく話し合ってくださって本当に賑やかな会になりましたことを心から皆様に感謝申し上げます。次回は4月24日(木)7時〜8時30分、「 よりよく生きるとは 」というテーマで開催する予定です。参加ご希望は磐上教会メールにて私まで事前にお申し出ください。今後も気持ちの良い対話空間を作って行きたいと願っています。
2025年3月30日 成田いうし
第 65 回 2月 27日 に開催しました。

第 64 回報告 2025年 1 月 23 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 変わること・変えることについて 』

1月23日木曜日午後7時より、2025年最初の磐上教会哲学カフェ通算第64回目を開催しました。初めての方お一人を含む計11人の参加者と、遠方からお便りでテーマについて所感を送ってくださった1名で、今回は「変わること・変えることについて」というテーマで語り合いました。
変わりたい、例えば、今までの自分を変えたい。年の初めに、「今年こそ○○を変えたい」などと抱負を持つことはよくあります。しかし、得てして、悪い生活習慣などの変えるべき・変えた方がいいことほど、なかなか変えられないものでもあります。他人の意見や指摘を素直に受け入れて、改めるべき点を変えることは、自分の危機管理・リスクマネージメントになります。変えるべき点に自分で気付ける人は、そもそも変化に適応する能力が高いのかもしれません。
人間はなかなか自分から変わりたくないものだという指摘もありました。例えば自分は変化を好まない性格なので、他の人が引っ越しや転職を気軽に何度もできるのを見るとうらやましく思う。変わらないことには安心感や安定性がある。しかし、昔からのルールでもすでに現実に合わなくなってきたものは変えるべき。キリスト教会で名簿記入などに男女区別を設けていることは性自認の多様化に対応できていない。必要な伝統というわけでもないのになんとなくやり方を変えないできたが、第三者に指摘されて変えるべきだと考えさせられた。このように、自分では気づいていないことを他人からの指摘などがきっかけとなり、変えていくこともあります。YouTubeの整理アドバイザー古畑さんの「週末ビフォーアフター」では、散らかった部屋の片づけで、まず自分の変えたくないところと、変えられる・変えるべきところを分けるという作業で、部屋の変えるべき課題を整理します。
私たちは自分についてなかなか変えられないことが多いですが、しばしば他人については「変わってほしい」と思うものであり、またその一方、自分の望んでいないほうに変化すると戸惑いを覚えます。米国政権がトランプ新大統領に変わり、歓迎する支持者も多いですが、トランプ批判者は新政権による様々な変化を危惧します。政治や経済は時代と共に変わるのであり、期待していなかった変化には臨機応変に対応することも必要です。多くの人は若い時には昔の学生運動などのように「社会を変えたい」と思っていたのがやがて「変えるべきでないこと」「変えないで守るべきこと」に気づくようになったりもします。
心理学者アドラーは『嫌われる勇気』で、人は「本当は変わりたくない」という自分の本心に気付かないので「変われない」のだと指摘。頭で考えているだけでは変わらない。頭・心・腹で気付いたときに変われる。アトピー性皮膚炎の子どもを持つ親が、治療を諦めたときにアトピーが治ることがある。免疫は人格にも存在する。人から自分を「こう思ってほしい」こと。変えなくても生きていけるうちは変わらないし、気が付いたら変わっていたということもある。ゴミ屋敷の解消の秘訣は「すぐやる」こと。部屋を片付けたい気持ちが変わらないうちにやる。物事を変えるモチベーションは「何をやりたいか」である。
などなど、多くの考えが出席者から語られ、所定の時間では足りなくなるほど熱気ある会になりました。

ラインホールド・ニーバーの”The Serenity prayer”(平静を求める祈り)の中の有名な言葉、「変えることのできないものを受け入れる平静を、変えるべきものを変える勇気を、変えることのできないものと変えることのできるものとを識別する知恵を」を指摘された出席者もおられました。ニーバー(1892−1971)は20世紀米国のキリスト教神学者であり、1930年代には社会主義にかなり接近して社会改良を展望していましたが、人間の本性についてその限界を見つめるリアリズムに立ち、単純な社会改良による変化だけでは正義は実現されえないことを、初期の主要著作『道徳的人間と非道徳的社会』(1932年)で考察しています。
今回の「変える」というテーマを巡って、話し合いの中で「変われない」(ニーバー的には「変えることのできない」)ことが浮かび上がってきました。
私は参加者皆さんの話し合いを聞きながら、「変わりたくない、という自分の思いにもかかわらず、否応なしに変わらざるを得ない変化」について考えていました。現代の哲学者でフランス人のカトリーヌ・マラブー(現在ロンドン・キングストン・カレッジの哲学教授)は、『偶発時の存在論』( 原著 2009年刊、原題 Ontologie de l accident: essai sur la plasticite destructrice ) の中で「 破壊的可塑性 」という概念を提出しました。

この著の副題にもなっているplasticite destructriceは、マラブーの哲学の主要概念で、マラブーは形状が変化する性質=可塑性plasticiteプラスティシテに着目し、漸次的な変化ではなくある日ある時突然に、外部から与えられる「破壊的な」可塑性というものがあると言います。
同著でマラブーは文学批評を論じており、破壊的可塑性の隠喩的サンプルとして、フランツ・カフカの 『 変身 』やマルグリット・デュラスの 『 ラマン(愛人) 』を挙げています。『 変身 』の主人公グレゴール・ザムザはある朝突然、自分が「毒虫」に変わっていることに気づきます。この変化によって、主人公グレゴールの人生のみならず、彼の家族である両親と妹の生活にも変化が訪れます。マラブーはこれを存在論的な変化、しかも「変わりたい」という自分の意志とは関わりなく、偶発的に生じた事態によって否応なしに「変わる・変えられる」ことであり、存在にはこのような破壊的に一変するモメントがあると論じました。同様に、マルグリット・デュラスの 『 ラマン 』において主人公の「私」はフランス領インドシナ(現ベトナム)で過ごした少女時代に中国人華僑青年との関係を通して「18歳でわたしは年老いた」と独白します。それは自然に年齢を重ねて老いるのではなく、青年との愛の始まりと終わりを通して偶発的(アクシドン)に破壊的(ディストルクトゥリース)な仕方で訪れる決定的な変化です。
カトリーヌ・マラブーはこの変化を「破壊的可塑性」と呼び、存在の本質を露呈させる契機として、どちらかというと肯定的に評価していると言えます。マラブーの実母がアルツハイマー型認知症になった体験をヒントに、マラブーはこの「破壊的可塑性」の積極的側面について考察したのです。「可塑性」はマラブーの哲学を代表するといえる概念であり、事件や災害の体験によるPTSDなどもこの関連で捉え、「新たなる傷つきし者」という概念にも発展させています。
今回のテーマも、時間が足りなくなるほど語り合いが続く盛会となりました。ご参加いただきましたすべての皆様に心より感謝申し上げます。次回は2月27日木曜日午後7時−8時30分の予定です。テーマが決まり次第追ってご案内いたします。
2025年1月30日 成田いうし
次回の磐上教会哲学カフェ第63回目は、12月26日(木)夜7時から、テーマは「育てる、育てたいもの」です。ご関心のある方は私まで教会メールまたはお電話でご連絡ください。参加は席数に限りがあるため、事前予約制とさせていただきます。ontherockbanjo@ruby.plala.or.jp
12月25日 成田いうし
第 62 回報告 11 月 26 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 「 世間 」ってなんだろう 』

11月26日(木)夕7時から、磐上教会哲学カフェ第62回を12名のご参加を得て開催しました。今回のテーマは「「世間」ってなんだろう」でした。「世間」という言葉は英語のsociety、あるいはworldに対応しますが、societyやworldの「社会」「世界」という意味とは微妙に異なるニュアンスが「世間」にはあります。もっと言えば、「世間」は西欧語の中に対応する概念がない日本語独特の意味を包含している言葉です。「社会」や「世界」は明治以降にsociety、worldの訳語として作られた新しい言葉ですが、「世間」はもっと古くからある日本語です。「世間」が意味するのは比較的狭い範囲の人間関係の事柄であり、「世間からどう思われるか」とか「世間体が悪い」といった言い方をするときに話者の念頭にあるのは、自分のことをある程度知っている人々からの評判、評価です。「世間の常識」といえば「たくさんの人々が思っている最大公約数的な意見や考え」を意味しますが、その場合の「たくさんの人々」とは実際には「近所の顔見知り」であり「同じクラスや職場」の人間集団であり、必ずしも広義の「社会一般」ではありません。「村社会」の中のマジョリティが「世間」であり、その中で「他人と違う意見を持つ」個人は「世間」からはみ出したマイノリティとなり、しばしばモラルやマナーの規範を逸脱したことをジャッジされることにより「村八分」にされる可能性があり、それを恐れるために「世間からはみ出すことをしたくない」「世間に顔向けができない」「世間から叩かれるのが怖い」といったマインドが生じます。
「世間」の捉え方は世代によって変化しているとも言えて、古い世代にとって「世間の目」が実質的にほとんど道徳の規準となっていたのに対し、親世代から「世間体を気にする」ような価値観を教育されていない若い世代には、そもそも「世間」と言っても話が通じにくいときがある、という話も出ました。しかしそれに対して、若者同士の中での「世間」は今もなおあるという意見もあり、身近な例を挙げながら、最近の若い人は、他人と違うことをして目立つことを嫌う、クラスで先生から褒められるのが嫌(クラスの中で浮いてしまう、いじめられる)、周りの人と違うことをして変な人だと思われるのが怖い、といった形で、世間を気にするマインドは昔も今もそんなに変わらないのではないか、と語られました。
話し合いの過程で、昨今のマジョリティの動向やSNSメディアでの多数意見について関心がある意見も複数あり、今年の東京都知事選挙、兵庫県知事選挙におけるSNSメディアといわゆるオールド・メディアの世代間対立や、またSNSメディアで多数意見を容易に形成できることから流言飛語が生じやすいことの危険、メディアリテラシーを持つこと、ファクトチェックの必要性なども指摘されました。
ほか、思い思いに出された意見を挙げると、「世間の目を気にする」のは平安時代の源氏物語で「恥をかくと人は死んでしまう」というマインドから現代までそんなに変わっていないともいえるのではないか。個人の行動を制限する圧力をかける「世間」は今もある。「世間から浮いている」ことに耐えられるか。などなど、様々な話が出ました。その一方、個人が世間と対立する場合についてもいろいろな意見が出されました。「世間」は絶対基準ではないのだから、自分の属する小さな集団の多数意見にすぎないものを過度に恐れる必要はない。昔も今も世間を気にしすぎる人が多い。世間と違ったことをして一人で生きるのはなかなかしんどいけれど、世間対個人で個人の尊厳が守られるべきだ。世間に流されない単独者でありたい。などなど。
ただし、「世間の考え」はある程度共同体を維持するための装置として機能しているものでもあり、「世間を味方につける」ことも必要ではないか、という「世間」を肯定的に受け止める見解も複数出されました。また、現代は地域によって「世間の目」の強度が異なり、昔ほど強制力がなくなっている。「世間」とは元来仏教用語で「移ろうもの」である。「世間」はけっこう無責任なものである。「世間」という「他人軸」で生きることと「世間」を気にしない「自分軸」で生きることのバランス。などなどの考えが語られました。
西洋史家の阿部謹也は『西洋中世の愛と人格 ?? 世間論序説 ?? 』において日本独特の「世間」を論じています。阿部謹也の問題意識は、日本には西欧の「個人が集まった社会」が存在せず「世間」のみがある、というもので、公と私の区別も日本社会は西欧と異なる考え方があり、日本において「個人」は「世間の目」からの評価によって左右される(変わる)ものであり、それが欧米人の感覚では「日本人は自分の意見をいわない、曖昧である」ように見える、と述べています。

「世間」について参加された皆様から様々に思う所が語り合われました。「世間を気にする感覚」は日本の独自なマインドなのでしょうか。とくに結論は出ませんでしたが、私が思うに、たとえばヘーゲル哲学(『精神現象学』)において他者論というくだりがあります。ヘーゲルと言えば「自己意識」「絶対精神」というイメージが先行しがちですが、実際にはヘーゲルは「自己意識」に「他者」が介在する時にはじめて自己が完成されると考えており、他者は必要な存在であり、他者からの承認(Anerkennung)が自己の重要な要素です。ところでわれわれの言う「世間」は、多数意見の圧力としてだけではなく個人としての他人の目から自分を見られることを含んでいます。ヘーゲルによると人間は社会(世間)のなかで「自分の自己意識に対して他者の自己意識がある」のであり(Es ist ein Selbstbewustsein fur ein Selbstbewustsein.)そもそも自己意識の本当の在り方とは、「自己意識が他なる存在のうちに自己の統一が成立する」(die Einheit seiner selbst in seinem Anderssein)ことなのだ、というのです。
このことを分かりやすく言うと、吉本新喜劇の故・チャーリー浜のギャグ「君たちがいて、ボクがいる」が当てはまります。自己の統一は他人の自己意識(世間の目=君たち)の上に成り立っている、というわけです。世間と自分を対立させ、世間に違和感を覚えることは少なからずありますが、「世間」の感覚も時代によってさまざまに変化し、その強制的な力も絶対ではありません。世間という「他者の集まり」からの評価、見方が個人の自己を形成するという側面もあることを、今回の話し合いの中で考えました。
次回の磐上教会哲学カフェ第63回目は、12月26日(木)夜7時から、テーマは「育てる、育てたいもの」です。ご関心のある方は私まで教会メールまたはお電話でご連絡ください。参加は席数に限りがあるため、事前予約制とさせていただきます。ontherockbanjo@ruby.plala.or.jp
12月25日 成田いうし
第 61 回報告 10 月 24 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 「 ルール 」 について 』

去る10月24日(木)午後7時−8時30分、磐上教会哲学カフェ第61回目を開催しました。今回は「ルールについて」とのテーマで、10人の参加者と、遠方からテーマについて思うことをお便りで書いてくださった方のご意見を参照しながら語り合いました。今回も楽しく興味深いお話を聞くことができて、参加された皆様のおかげです。心より感謝申し上げます。
今回のテーマは「 ルール 」。この世にはどこにでもルールがあります。職場のルール。マンションの管理組合の規約。スポーツやゲームのルール。家族や親しい仲の関係においても、それなりのルールが生まれるでしょう。
話し合いは、まず、「 そのルールに納得がいかない 」ケースについて体験的に語り合いました。「 ルール 」というテーマから、それに合理的な理由や根拠があるのか疑わしいと思えるものでも、「 昔からこのルールでやっている 」「 こうするのが常識でしょう 」といった感じで、ルールに従わせられることに納得がいかない経験をしたということを思い浮かべた参加者が何人かおられました。法律とか規約で明文化されて公になっているルールならばともかく、町内の自治会とか小さなサークルなどで「 ここではそういうルールになっている 」という不文律を押し付けられて、違和感を覚える場面がしばしばあります。
ルールが発生するのは、困ったことが生じたからそれに対応するためなのか。ルールがないと本当に困るのか? 学校の校則が、「 生徒が非行に走るのを未然に防ぐため 」という理由で過度に細分化したり、ルールが増えて行くことがあるが、本当に必要なルールなのか?ルールとは本来、個人と個人の自由が衝突しないように、権利の平等を保障するための装置としてあるものだ。モラルに反する行為を禁じるルール作り( お年寄りに席を譲れとか、たばこのポイ捨てするなとかをルール化する )は必要か?ルールには主権者がいる( 法律 )。法律の一次ルール( 目的合理性 )と二次ルール( 罰則 )。村社会の習慣やお祭りの伝統は守ることが前提のルールであり変えられない。法律には従っているが誰も幸せになっていないよりは、「 大岡裁き 」のような( 脱ルール的、超ルール的 )差配がある方が良いのではないか。ルールを壊す勇気も必要だ。ニーズによって変更可能なルールが望ましい。
などなど、様々な見解が述べられました。
また「 マイルール 」ということについて複数の参加者から思うことが述べられました。自分の物差しを自分にだけ適用する。周りの人と円滑に付き合えなくなるほど不合理なマイルール。自閉症児などのルーティン行動は「 ルール 」とよぶべきなのか。「 変えられないこだわり 」がマイルール。マイルールがあると安心できるプラス面がある一方で、不安と依存から不自由になるマイナス面もある。マイルールを押し通して公のルールから逸脱してしまうことはないか?自分だけのルールでも、周りと折り合いをつけて現実に適合したものにならざるを得ないのでは。
ゲームのルールには従うことが原則であり、ゲームに参加する者はルールの内容について嘘をつかないものである。
その他、日本国憲法に関して憲法改正の問題や96条についての見解なども、ルールの変更は可能かという観点から述べられました。
参加者皆さんの発言は多様で、いつもながらすべて拾いつくすことはできません。一時間半の語り合いではまだ足りないといった感じで、とても面白く活気あふれる会になりました。
最後に、私は今回のテーマをめぐって思いめぐらしたこととしてルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン( 1889−1951 )の言語ゲーム理論について少しお話ししました。
ヴィトゲンシュタインは前期の代表作『 論理哲学論考 』Logish-philosophishe Abhandlungen において、「 世界とは起きている事実 Tatsache の総体である 」という命題から始めて、事実とは個々の事態 Sachverhalten の間の論理的関連によって成り立ち、論理が像を結んだものが思考であり、論理的思考を表現するものが言語である。言語は規則 Regel によって使用されるもの Gebrauch であり、かつ、言語の規則は変更不可能なものである、と考えていました。言語はルールに従って使用される限り、「 われわれは、言語の外に言語によって出ることはできない 」のであり、『 論理哲学論考 』の結論は、「 それについて語ることのできないものについては沈黙しなければならない 」Wovon man nicht sprechen kann, daruber muss man schweigen. という有名な言葉で締めくくられます。これは、言語は事実について論理的に語りうることだけしか語れないゆえに、世界( 起きている事実の総体 )の「 外から 」形而上学的な思弁を言語で語ることが不可能であり、イマヌエル・カントの「 物自体 」と同様に、それについて語ることが不可能であるという哲学の限界に行き着いてしまったヴィトゲンシュタインは、実際に哲学を放棄して、長い沈黙の期間に入るのです。

しかし、『 青色本 』Blue Book において「 語の意味とは何か 」という設問から哲学を再開したヴィトゲンシュタインは、後期の主著である『 哲学探究 』Philosophishe Untersuchungen において「 言語ゲーム理論 」を展開します。言語ゲームとは、ルールに従った言語の使用 Gebrauch であり、そこまでは前期の『 論理哲学論考 』と同様ですが、『 哲学探究 』において彼は、「 ルールは変えることができない 」という『 論考 』での見解を変更し、「 規則のパラドックス 」を提示して、規則( ルール )に対する懐疑的な思考を展開していきます。「 規則は行動の仕方をどのようにも決定できないだろう、というのも、どのような行動の仕方も規則に一致させられるのだから。」(『 哲学探究 』201 )簡単な例をあげるなら、何かあるルールがある時( 教室の中でコーヒーを飲んではいけません、等 )、そのルールから逸脱する行為( 教室の中でコーヒーを飲む )をしたとしても、行為者がその行動を規則に一致させることはありうる( これはコーヒーではないから、教室内でコーヒーを飲んではいけないというルールに違反していないと主張する )、というものです。ルールは行動を決定できないという「 規則のパラドックス 」から、ヴィトゲンシュタインは、「 規則に従うとはどういうことか 」の考察を深めて行きます。
始めに述べたように、世の中には、それに従うことが納得できないルールというものがよくあります。アウェーの環境で「 郷に入っては郷に従え 」的なルールを押し付けられた異邦人は違和感にさいなまれるのです。私は、今回のテーマを考えながら、フランツ・カフカの小説『 城 』を連想していました。
『 城 』は、主人公の測量技師Kがある村で仕事を依頼され、村の中心にある城へ行こうとするのですが、様々なことによって邪魔をされてどうしても城にたどり着けないという物語です。城を中心とした村( 社会 )の中には、村の行政を統括する城の官房長クルムによるルールらしきものが存在し、村の全住民はそのルールの網の目に捕えられて生活しています。けれど実態としては、権力者のクルムに忖度をする村人には恩恵があり、明文化されたルールを超えた何らかの差配が働いて村人を支配しています。異邦人であるKは村のルールに戸惑いながらも、一方で依頼された仕事を遂行するために、積極的に村社会のルールに順応しようと努めますが、結局思うようには進行しないまま物語は中途で終わります( 未完 )。一種のディストピア的小説ですが、今回哲学カフェの「 ルール 」というテーマを設定したことをきっかけに、ルールの有効性と限界について、現実と適合せず形骸化したルールになっていく問題について、ルールのメタレベルについて、マイルールについて、ヴィトゲンシュタインの言う「 私的言語 」や「 家族的類似性 」について、などなど思いめぐらしながら、カフカの『 城 』における、社会システムへの順応と忖度による腐敗がルール化しているディストピア的世界を思い浮かべていました。そんな中、参加者皆さんの話し合いの終りの方で、「 ルールを変える勇気も必要 」というポジティブな見解が出されたのが印象に残りました。
今回も参加者皆様のいろいろなお考えをお聴き出来て本当にありがとうございました。
次回の磐上教会哲学カフェ第62回目は11月28日(木)午後 7時−8時30分開催の予定です。テーマは『「 世間 」って何?』です。関心のある方は私まで教会メールまたはお電話でご連絡ください。参加は席数に限りがあるため、事前予約制とさせていただきます。
11月12日 成田いうし
第 60 回報告 9 月 26 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 「愛」について 』

磐上教会哲学カフェ通算第60回目となる今回は、『「愛」について』というテーマでした。日本語で「愛」という言葉が指す内容は広く、しばしば曖昧な使われ方をします。愛が無条件に良いものであるとは限りませんが、一般に「愛情深い」のは良いことであるというように、私たちは愛について多くの場合プラスのイメージを持っています。
今回の語り合いではまず、愛にもいろいろあり、例として「過干渉な親の愛」のように、愛を受ける子の側にとっては束縛となる一方的な感情もあることや、「サボテンを大事にして(=愛して)水を遣りすぎて枯らしてしまった」体験といったように、愛情のかけ方が過剰であったり方法が適切でないために愛する対象をスポイルしてしまうような、悪い種類の愛はしばしばある、と体験から語り合われました。愛は、愛する対象である他者があってこそ成り立つもので、その他者への配慮が無く、他者を傷つける独占欲(小児性愛やストーカー行為など)という独りよがりな愛や、愛のエネルギーの向かう方向性(愛し方?)が適切でない愛を、そもそも愛と呼ぶべきではないのではないか?ということも語られました。
強すぎる愛、大事にしすぎる愛、重くなる愛、自分の愛しか見ていないので相手にうまく伝わらない愛、などなどは、「愛」を理想化することから、それらが悪い意味の愛し方であっても「愛している」ことが免罪符のように機能しています。

愛とは何でしょうか。参加者の思い思いの愛についての定義が語られました。相手が存在することを受け入れるのが愛である。愛は伝染して広がるもの。愛は自分を映す鏡。愛は責任である。愛は実践である(=愛は名詞ではなく動詞で「愛する」こと)。愛は貰うものではなく与えるものだと分かった(奈良少年刑務所の受刑者の詩「名前で呼ばれたこともなかった」から)。愛情を注ぐことは能力である(岡本一平、かの子)。愛は対象を大事にすること。対象を大事にするという行為の原動力となるものが愛。人を拘束、所有したい欲求もまた愛。親が子を心配することもまた愛。では、相手を支配、操作しようとして「お前のためを思っている」と言うことも愛になるのか。
愛された経験は連鎖するものであって、親などから愛された経験があることによって他人を愛することができるという意見に対し、愛を受けた経験がなくても他人を愛することができるか否かについて賛否の意見があり、生育環境など社会条件で愛を受けられなかった子どもの実際例として、ルーマニアの社会主義崩壊後の孤児院で保育士との長期にわたる愛着関係を築けなかった子どもたちの例や、孤児院で乳幼児を抱っこして授乳した施設の死亡率が低かった例などを挙げられました。
仏教用語で「執着」と「慈悲」は非常に異なる別概念であるのに対し、西欧語 love の訳語を明治時代に一律に「愛」としたために(西周?)、悪い意味の愛と良い意味の愛が混同されていると指摘されました。ギリシャ語のアガペー(慈悲、神の愛)とエロース(性愛、人間の自己中心的な愛)とフィリア(友の愛)のような区別がないことが、明治以降、現代までの日本人にとって愛の概念を両義的なものにしています。
参加者皆さんの語られたことをすべて拾いきれませんが、実に様々な話題が出され、いずれも大変興味深く聞きました。
私は今回のテーマからの連想で、三島由紀夫の小説『仮面の告白』で一人称で告白する主人公が「他者を愛することができない」ことの悲劇性について私の考えたことをお話ししました。同性愛者の主人公は園子という異性の恋人を愛そうと懸命に努めますが、不可能であることを悟ります。それは単に主人公にとって性愛として異性を愛せないというだけの問題ではなく、思慕する相手が同性であるか異性(園子)であるかに関わらず、そもそも主人公はその相手に投影した自分の観念を愛しているのであり、実際の他者を愛しているのではないという、愛する対象不在の孤独(を主人公が克服できないこと)が『仮面の告白』の悲劇性だと思います。今回哲学カフェの語り合いのなかで、愛は対象存在への愛であると共に自分を愛する(愛せる)自己肯定感の重要さも語られました。『仮面の告白』の主人公は同性愛者であると共に、自己愛者(ナルシシスト)であるかのように思えますが、実は自分を愛することができず、空想の中で自分が他の誰かになりたいという自己不在化を当為(主人公が作中で使う表現)と考えている「奇妙で、悲しい」人物です。本来、人間において実際の自己を認めて許容できることと、他者を愛せることとは繋がっており、そうすると、所与の自己を恥じていていつも自己不在化を空想している主人公に他者(園子)を愛することは初めから不可能ということになります。『仮面の告白』は同性愛がテーマであるかのように思えますが、それは小説の表面上の設定であるにすぎず、本当は、ありのままの自己を愛せないがゆえに、自分を愛するのと同じように他者を愛することができない主人公の悲劇がこの作品の本質だと思うのです。

キリスト教における「隣人愛」は聖書に基づいて自分を愛するように他者を愛することとされています。古代の教父アウグスティヌスにおける愛の概念について書かれた、20世紀の思想家ハンナ・アーレントの分析を少し紹介しました。(『アウグスティヌスにおける愛の概念』みすず書房) アウグスティヌスにおいて愛にはラテン語で三つの種類があり、「アモールamor」「カリタスcaritas」「ディレクチオdirectio」です。
アモール(=希エロース)とは欲望 ( appetitus )に基づく世俗的な愛であり、語り合いの中で出た「自己中心的な悪い意味の愛」はこの範疇に入ります。
カリタス(=希アガペー)とは神に対する人間の愛で、最高の恩恵を求めて努力する愛です。
ディレクチオ (=希ストルゲー)とは 隣人への愛 ( dilectio proximi )です。他者に対する自由で貪欲でない愛情の中に神の愛を予期し、それによって世界において神に喜ばれる立場を可能にします。
このうち三つ目のディレクチオは「世界に対する愛」につながり(directio mundi)、ハンナ・アーレントの政治思想における公共性の政治概念に展開されます。
今回の哲学カフェは定員を超える14人の参加者と、他県にお住いの方からお便りでの所感を紹介することも交えて、とても面白い語り合いができ、参加されたすべての皆様に心から感謝申し上げます。次回は10月24日に開催予定です。
第 59 回報告 7 月 25 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 努力とは 』
7月25日(木)夜7時より、磐上教会哲学カフェ第59回を開催しました。今回は初参加の方が2人おられ、定員を超えて13名の参加者と、遠方から書簡でテーマについて考察を寄せてくださった方お1人とで行いました。
今回は「努力とは」というテーマでした。努力、と聞くとまず人間の徳目の一つだというイメージが浮かびます。何か目標を設定してそれを達成するために頑張り、望んだ通りの結果が得られると「努力の甲斐があった」「努力が報われた」と感じます。そのように成果主義に結びつく努力がある一方で、「報われない」努力というものもあります。参加者皆さんの様々な努力観が語られました。努力は良いものであり必要であるという見方もあれば、努力という言葉にあまり良いイメージを抱かない人は「努力することは嫌い」と言います。そもそも「嫌なことを我慢してする」のが努力だと感じる場合もあります。苦手なことを克服しようとしたり、人間関係で好きになれない相手を好きになろうと努力する、などです。
道徳的価値観で努力を語ると、主観的になりがちです。俗にいう精神論や自己責任論と結びつく努力についての言説(もっと努力しろ、あなたの努力が足りないから…などなど)は努力を客観的に証明できない観念的な努力観から出てきます。一方、スポーツや楽器の演奏など、技能を磨くための鍛錬は、それをやった分成果が見える努力だと言えます。野球の大谷選手や「ガラスの仮面」の北島マヤのような天才だって、人一倍努力して成果を出しているのです。今回の話し合いでは、個人がする努力についていろいろ考察されたほか、法律用語の「努力義務」のあいまいな拘束性とか、「企業努力とは何か」など個人単位を超えた社会的な努力の在り方についても意見が出ました。
話し合いを通して見えてきたのは、努力を尊ぶかそうでないかということについて老若の世代間で温度差が見られることからわかるように、努力という概念の受け取り方はそれなりに時代の制約を受けている、ということです。日本の場合、明治維新以降に士農工商身分制度が廃止されると共に学校制度が整備されていく中で、生まれながらの身分の差がなくなって努力した者が上に行けるという価値観が醸成されてきたことが、その後の日本社会における人々の道徳的な努力への評価に影響を与えてきたと言えますし、一方それへの反動で、他人から努力を強制されることへの忌避感や、「努力しても無駄、疲れるだけ」といったような努力そのものへのネガティブな感じ方も生じてきました。昨今のように社会の閉塞感が増してくると、若年層に「親ガチャ」とか「実家が太い(裕福の意)から成功する」という考え方から努力による成果について冷めた感覚を持っている人が見られます。グレーバーの言う「ブルシット・ジョブ(くそみたいな仕事)」に努力させられる徒労感から、努力に対するネガティブな感じ方も出てきます。
私は参加者皆さんの語り合いを一通り聞いた後で、17世紀オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザの「コナトゥス」概念について少し話しました。コナトゥス(conatus)はラテン語で「努力」を意味します。デカルトやスピノザ、ライプニッツ、ホッブズといった近代の哲学者たちによって論じられ、特にスピノザにおいてコナトゥスは「自己保存のための努力」として概念化されました。スピノザによれば、 コナトゥスとは、「すべてのものが、神的本性の必然性によって決定づけられていて、一定の仕方で、存在し、活動しようとしている(『エチカ』第一部定理29)」のであり、「各々すべてのものが,自己の存在を保持しようと努める、その能力、ないし努力」のことをいうのです(『エチカ』第3部定理7)。
スピノザにおいて「自己保存の努力(コナトゥス)」は彼の思想の中心的役割を果たすものであり、「おのおののものが自己の存在に固執しようと努める自己保存の努力(コナトゥス)はそのものの現実的本質に外ならない」(『エチカ』第3部定理7)と述べています。スピノザの言う努力(コナトゥス)は個物の恒常性を保とうとする力のことであり、現代の医療用語で言う「ホメオスタシス」にも通じるところがあります。
20世紀のポストモダン哲学者ジル・ドゥルーズが、スピノザの『エチカ(倫理学)』を「義務の理論としての道徳論とは全く異なり、能力の理論として提示されている」と指摘しているとおり、スピノザは努力(コナトゥス)についても、それを道徳的義務としては捉えておらず、個物(人間一人一人)に生まれながらに備わっている方向性を持った力なのであり、主体の能力を発揮するために発動される努力(コナトゥス)が人間(およびあらゆるもの)の現実的本質だとしています。その意味で努力(コナトゥス)は人間の自由に深く関わるものです。現代日本の私たちは明治以降の社会的制約によって、努力というものを美徳ないしは道徳的義務として受け取りがちですが、努力は人間の自由から発動されることにも目を向ける必要があると思います。スピノザは『国家論』において、人間の理想社会の条件とは各個人のコナトゥスが他人によって踏みにじられないことだとしています。自分のコナトゥスを侵害されず、他者のコナトゥスを尊重する自由という視点から、努力について捉え直してみたいと思いました。
今回も参加者皆様の自由闊達な語り合いから刺激を受けて感謝いたします。次回は、8月は夏期休会で、9月に開催する予定です。当方の哲学カフェに関心のある方はお気軽にお問い合わせください。



第 58 回報告 6 月 27 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 お隣さんとわたし 』
先月6月27日(木)19時より、日本キリスト教団磐上教会で月例の「教会de哲学カフェ」第58回目を開催しました。10名の出席者と、他県にお住まいで遠方のため出席は難しいけれど書簡でテーマについて考察を送ってくださった方がお1人、合わせて11人の参加で行われました。
今回のテーマは「お隣さんとわたし」というものです。現代の都市部の生活空間において「お隣」は、昔の田舎の村落共同体の人間関係とは違った問題を生み出しました。隣人づきあいが希薄な人が増え、それは都会に限らず地方都市においても過疎化、少子化、高齢化、後継者不足といった要因に伴って、昔ほど隣人と関わる機会が少なくなり、むしろ田舎において高齢者の独居、孤立の問題が顕著になっています。
今回のテーマについて、参加者の皆さんの身近な経験談を通して、「わたしにとっての隣人」を思い思いに語っていただきました。子供の頃の下町の長屋住まいや農村の共同体の暮らしでのお隣さんの思い出や、田舎の因習が面倒だった記憶、洪水などの災害時に危険を冒して近くの川を見に行く人の話、「早起きは三文の得」の本当の意味、近い家同士での利害の衝突など、昔ながらのお隣さんづきあいのいいところと嫌なところについて具体的な体験談が語られ、また現代の都市部での「隣にだれが住んでいるのか知らない」生活の現実について、各人の思うところをいろいろ話してくださいました。
語り合いから得られた印象として、現代の近隣づきあいが希薄になり人々が孤立しやすい環境に暮らす人にとって、お互いが自分のプライヴェートな領域を守りながら隣人づきあいを良好に保つにはどうしたらいいかを、多かれ少なかれ誰もが苦労していることが窺われました。
「お隣さん」というテーマ設定から、もっぱらそれぞれの身近で具体的な生活事情について多く語られたので、単なる「近くにいる人」に限らず自分にとって「隣人」と思える人間関係とは何か、という抽象化した隣人概念や、もちろんキリスト教の隣人愛に関わることも、参加した皆さんの考えにあったようですが、深く掘り下げるには時間が足りなくなりました。
私は今回のテーマを念頭に、最近見たある映画についてのお話をしました。ジョナサン・グレイザーという英国の映像プロデューサーの監督した『関心領域』(原題Zone of Interest)という2023年の映画です。ナチスドイツのアウシュヴィッツ強制収容所所長だったルドルフ・ヘースの一家を描いた映画で、収容所の「隣り」に塀と有刺鉄線を隔てて建てられていたヘースの屋敷を舞台にして、ヘース一家(妻、5人の子ども、親せきや友人、飼い犬)が「隣り」の収容所で「実際に何が起きているのか」を熟知しながら、それどころか塀を隔てた隣りから聞こえてくる「異様な騒音や人の怒声や叫び声」を四六時中耳にしているのに、一家の誰もそのことを一向に気にしていない様子で、巨大な邸宅と広い庭園で豊かな生活を楽しんでいる風景を、実際のヘース邸を撮影場所として、主に定点カメラを駆使して意図的に感情的描写を排した無機質な映像に作り上げています。衝撃的な内容の映画でしたが、ホロコーストの惨状を一切描かずに、ただ屋敷の隣で起きているホロコーストに無関心で「自分の見たいものしか見ようとしない」ヘース一家のエゴセントリックで狭い「関心領域」を淡々と描写した映像が非常にリアルで、そんなヘース一家の物事の感じ方が自分にも身近に感じられて一瞬共感すら覚えるところがあり、観終わった後に複雑な感情が残る映画でした。
「隣り」をテーマにした今回の哲学カフェは、私たちの隣人観を内省し、身近な人との向き合い方を考える機会となり、参加者皆様のお話に心より感謝申し上げます。
次回の「教会de哲学カフェ」第59回目は7月25日午後7時より開催予定です。関心のある方は私の方へ気軽にお問い合わせください。


第 56 回報告 4 月 25 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 好き嫌いについて 』

4月25日、磐上教会哲学カフェ第56回を開催しました。10名の参加者と、遠方のため出席できないけれどお手紙でテーマについて考えたことを伝えてくださった方がありました。今回のテーマは『好き嫌いについて』でした。
まず、食べ物の好みや食べれないもの、納豆の好き嫌いなどの話題から始まって、昔は学校で食べ物の好き嫌いを克服するように教育してきたが現代では容認する傾向が強いこと、またその是非について、音楽の嗜好(クラシックが好き、洋楽、邦楽が好き、ロックが好きetc.)は何によって生じるのか、「あの人が嫌い、苦手」という感情の原因、また、「嫌い」の理由を分析することを放棄した時に「生理的に無理」という極端な嫌悪感になる、など、好き嫌いの程度や種類、その分析など思い思いに語り合われ、皆さん楽しみながらあっという間に1時間半を過ごしました。参加者皆様に心より感謝申し上げます。
好き嫌いは誰にでもあるものですが、昔は「善悪」「正誤」といった社会的コンセンサスを前提する価値判断しかなく、個人の好き嫌いの表明がコミュニケーションにおいて意味を成すようになったのは近代以降で、特に20世紀以降の消費社会において初めて、趣味嗜好、選好が大きなテーマになってきました。
好き嫌いをアナリティカルに論じた例を三つ挙げてみます。
まず19世紀末〜20世紀初頭のアメリカの社会学者ソースタイン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』が思い浮かびます。ヴェブレンは富裕層が贅沢品を好むのは「見せびらかしのための消費 conspicuous consumption」であるとし、中産階級は「その商品を持っていることを人に見せたい」という動機からブランド品を好きになると論じました。
次にフランスの哲学者ジャン・ボードリヤールは『消費社会の神話と論理』(1970年)の中で、現代の消費は需給バランスに関係なく商品の「社会的差異化differenciation sociale」が消費行動を動機付けており、他人と違う物、自分が以前持っていたのより良い物が欲しくなるのであり、こうした消費社会では他の商品との差異をアピールする「広告」が消費者の好みを生み出すと分析しました。
三つ目にフランスの社会学者ピエール・ブルデューは『ディスタンクシオン』(1979年)において、個人の趣味、選好はその人がどのような教育環境で育ったか、またその人の属している社会階級が原因となって生み出されるものだということを社会調査に基づいて論じました。「卓越化」と訳されているディスタンクシオン(フランス語、英語のdistinction)は自分の好みを他者より卓越させようとすることであり、私たちは自分の好き嫌いや趣味を互いに押し付けあう「象徴闘争」を行っているのだと論じました。こんにちの若者の言葉で推しのアイドルなどについて「○○しか勝たん!」というのなどはまさにディスタンクシオンの例です。その際に自分たちが育ってきた経済・文化環境によって形成された「ハビトゥス」(過去の経験の中で形成された性向のこと)が趣味嗜好を決定するというブルデューの分析は、発表当初は「たんなる社会決定論にすぎない」という批判も受けたそうですが、NHK「100分で名著」で取り上げられたこともあり、近年再評価が著しく、若い読者に支持されています。
今回の哲学カフェの語り合いから、私たち日本人は昔の教育環境から「(食べ物などの)好き嫌いは克服するべきもの」という刷り込みが大きいのではないか、という印象を受けました。近年、教育現場で子どもの好き嫌いを容認する傾向になってきたとはいえ、私たちの中にはなんとなく「好き嫌いを主張するのは身勝手ではしたないこと」という感覚がまだ残っていて、自分の趣味、選好を素直に表現できないもどかしさを多くの人がもっているように思いました。「好き嫌い」を生み出す「ハビトゥス」のメカニズムを論じたブルデューの『ディスタンクシオン』は、そういうもどかしさの中にいる人に「なるほど、自分がこれを好き/これが嫌いなのはこういう理由からだったんだ!」と腑に落ちるような説明を与えてくれるので、特にこんにち、若者など多くの人の心に刺さり、再評価されるようになったのだろうと思います。
ちなみに「ハビトゥス」はスコラ哲学のトマス・アクィナス、そして古代ギリシアのアリストテレスにまで遡る長い歴史のある概念であり、トマス『神学大全 』第II-1部 第50問 題第2項において「habitusは 自然もしくは働きへの連関における何らかのdispositio(状態・秩序づけ)」であると定義されています。

第 55 回報告 3 月 28 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 時間の使い方について 』

第 54 回報告 2 月 22 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 「 見た目 」 について 』

第 53 回報告 1 月 25 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 正当性について考える 』

2024年1月25日、日本キリスト教団磐上教会にて、哲学カフェを開催致しました。通算第53回目の今日は、『正当性について考える』と題して、10人の参加者で縦横無尽に語り合われました。価値観が多様化し「何が正しいのか」という、物事の正しさが揺らぎだしているように感じられる現代生活で、自分の正当性を主張するとはどういうことなのか、身近な体験や社会情勢に照らしながら色々な考えが話し合われました。「自分は正当に扱われていない」といった不満を持つ心、などについても考察されました。正当性の問題は倫理的妥当性から、権力支配の論拠となる政治概念まで幅広く考えられます。政治において正当性が疑われる事象が相次いでいる昨今ですが、このような状況は20世紀戦間期の1930年代、ワイマール共和国末期のドイツで法哲学者カール・シュミットが著した論文『合法性と正当性』において提起した問題を改めて考えさせられます。本日もご参加くださった皆様に心から感謝申しあげます。次回は2月第四木曜日午後7時から行う予定です。
第 52 回報告 11 月 30 日 (木) 19時 − 20時30分開催しました!
テーマ: 『 娯楽と休息 』

今回は『娯楽と休息』と題して、娯楽とはそもそもなにか?趣味と娯楽の境い目は?ただ愉しいだけで終らなくなって、しんどくなったり、依存したりするのは娯楽と言えるのか?休むことの積極的意義は?等など、実にさまざまな角度から多くのことが語り合われました。娯楽を意味するフランス語のディヴェルティスマンはもともと、本題と関係ないことに気を逸らせることを表します。この娯楽(気晴らし、気散じ)を求める人間を、ハイデガーは『存在と時間』においてダス・マン$「人と呼び、ダーザイン¢カ在者と区別したことなどを最後にお話しました。この会を毎回楽しみにご参加くださる皆様に心から感謝申しあげます。次回は来年1月25日に開催予定です。ご興味のある方お気軽にお尋ねください。
第 51 回 10月 26日 に開催しました。


第 50 回 9月 28日 に開催しました。


第 49 回 7月 27日 に開催しました。

先週2023年7月27日(木)夜7時から、磐上教会哲学カフェ通算第49回目を開催しました。
枚方市が国内で最高気温となる記録的な猛暑のなか、開催時刻に夕立が降りだしましたが、参加予定の皆様は無事に集まってくださり、12名で哲学カフェを開催できました。うち、初めて参加された方が5名おられました。また当初予約されていて都合で欠席された方2名を足すと、定員を超える参加応募をいただきました。
今回のテーマは「 言葉について 」。あまりに漠然としたテーマ設定なので、参加された皆様はどこから話し始めたらいいか戸惑われたと思いますが、それでも話が進むにつれ、意思伝達のツールである言葉の用い方、SNSでの言葉のコミュニケーションの難しさ、世代間の感覚の違い、方言などの地域特性、日本語のいわゆる行間を読む式の意思疎通、身体言語・非言語的コミュニケーション、西洋語の名詞の性に必然性があるか否か、もやもやした感情をノートに言葉化して書く習慣づけで見えてきたこと、言葉は「こと」の「葉」であり事柄を限定するものであり言葉ですべてを言い尽くせない、言霊とはなにを表わすのか、等々、身近な言語経験から感じたことや、言葉の起源に思いを馳せる話など、参加者相互で質問を投げかけたりしながら、気がつくとあっという間に1時間30分が過ぎてしまいました。
私たちが日常運用している言葉をサイエンスの対象として分析する近代言語学を創始した、ジュネーブのフェルディナン・ド・ソシュールは20世紀初頭の『一般言語学講義』において言語活動の表層の部分( 現実に語られる発話 )であるパロル( 話し言葉 )と、深層の部分( 文法による言語 )であるラングとを区別し、ラング( 言語 )を歴史的な通時性ではなく非歴史的な共時性で取り出すことにより言語学の研究対象を明確化し、その後の構造主義の分析方法に大きな影響を及ぼしました。
今回の哲学カフェの出席者皆さんの自由な語り合いを伺いながら、私は生活の中で私たちの話すパロルの中にある、私たち自身が意識していない奥底の思いや「言霊」、非言語的コミュニケーションについて考えていました。今回のテーマ設定は荒っぽかったにもかかわらず参加者皆様の積極性のおかげでいろんな方向に対話が展開し、黒板の板書がとても追いつかないくらいでした。言語について、今後も形を変えて対話をしてみたいと思います。
これまでの「教会de哲学カフェ」の様子
第37回 2月27日の黒板
第37回目は、『 嫉妬心について 』 というテーマでした。新型肺炎コロナウィルスのため開催を見合わせるか直前まで苦慮しましたが、
最終的に開催を判断し、マスク着用と手洗い等の準備の上、予定通り始められ、今回は定員を上回る14名のご参加を得ました。
そのような状況のなか、嫉妬というテーマについて参加者皆様が様々な見解を出し合い、かなり突っ込んだ内容の会となりました。
嫉妬心は老若男女問わず人間の根源的な感情のひとつであり、かつ、およそ古来より克服さるべき悪しき感情とされてきました。
嫉妬から何か積極的なものがうまれるのか。
ネガティブな感情をばねにして、人間的成長の糧とすることができるか。
実体験、実感をもとに参加者皆様が率直に話をして下さいました。
初めての参加者が3名ということも久しぶりで、嬉しい会となりました。皆様に心より感謝申し上げます。
第36回 2020年1月 23日の黒板
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第31回 9月 26日の黒板

第30回 6月 27日の黒板
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第29回 5月23日


第28回 4月25日


第27回 3月28日


第26回 2月28日
2月は成田牧師が東京出張のため不在、ということで、やむなく黒板の板書のない回になりました。
そのような状況にも関わらず、ほぼ満席の11名のご参加をいただき、「居心地が良い」とは?というテーマのもと、対話が弾みました。
絵本「葉っぱのフレディー」の一節を朗読して下さった方、ご自身の「居心地が悪かった」経験をお話し下さった方、居心地の良い場のあり方を身体面・精神面の両面から考える必要性を指摘された方もおられました。
学校や社会の「居心地」になじめない人々に寄り添うような発言も多く、そうした中から、居心地は必ずしも与えられるものではなく、自分で切り開くものと感じた、という前向きな感想も語られました。
「葉っぱに生まれてよかった」とつぶやいたフレディーのように、「自分に生まれてよかった」と思えることが人生の居心地の良さなのかも知れないと、考えさせられました。
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第25回「教会de哲学カフェ」、1月 24日 (木) に開催しました。

12名のご参加をいただいて、「教会de哲学カフェ」3年目がスタートしました。
「宗教」について語るなんて、普段ありそうでない経験。(しかも教会で・・・)
互いの意見や経験談に真摯に耳を傾ける、温かく受容的な雰囲気の中、活発な対話が交わされた会になりました。
お一人お一人の言葉が心に響く、印象深い哲学カフェでした。

「 教会 de 哲学カフェ 」2周年謝恩特別企画、 12月 27 日(木) に開催しました。
2年間支えて下さった参加者の皆様と共に、感謝を込めて2周年謝恩企画「哲学夜咄」を開催しました。シチュエーションデザインを引き受けてくださったアーティストの参加者様のおかげで、小さな会堂が素敵な空間になり、ご参加下さった皆様に喜んでいただけたことと思います。( 通常回は定員12人ですが今回は初参加6人を含めて計21人のご参加をいただきました )
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いつもと違うムーディーな空間で「哲学カフェと自分」というお題でのトークセッションも、思い思いに話し出される中から皆様の素敵な言葉を拾うことができました。参加者のどなたもが安心して語れる場という理想に、少しでも近づけていたなら幸いです。
「 教会 de 哲学カフェ 」第 23 回、 11月 29 日(木) に開催しました。
今回は9名のご参加を得て、「学ぶ」とはどういうことかについて話し合い、様々なヒントが出されました。情報処理と模倣だけに終わらない、それを超えるところにある学びの価値を考えさせられたことと、学んだ分だけ自分を好きになれる、という言葉を拾ったことが印象に残りました。話に集中して黒板板書をするのが追いつかず、時間が足りなく感じました。シンプルで地味なテーマでしたが、参加者皆様が積極的に発言して下さり助けられました。
次回の磐上教会 de 哲学カフェは12月27日歳末の開催、本会を始めてから二周年を記念して特別回とする予定です。リピート参加して下さる皆様、新しく来てくださった方、どなたも歓迎致します。

「 教会 de 哲学カフェ 」第 22 回、 10月 25 日(木) に開催しました。

10月もコーヒーやお茶を飲みながら、リラックスした雰囲気で対話が行われました。ペットと暮らした経験がある人もない人も、動物が大好きな人も苦手な人も、動物と人間の関わりについて、多様な視点から展開していきました。「ペット」が人間本位の視点からのみ語られることへの抵抗感や、家畜とペットの違い、殺処分の問題、ペットが癒しや愛する喜びを与えてくれるからこそ「命」として尊重したいという思い、「命」であるからこそ求められる責任、など話題は尽きず、あっという間の1時間半でした。
「 教会 de 哲学カフェ 」第 21 回、 9月 27 日(木) に開催しました。
「負い目」をどんな時にどう感じるか、といった身近な経験や感覚などを出し合うところから、参加者11名による対話がスタートしました。正しくあるべき時にそのように自分が振舞えなかった時、人から恩を受けた時、人間関係の中での「貸し借り」など、様々な例が出されました。
そこから派生して、受けた恩はどこに返すのか?という問いや、「助ける」「助けられる」関係が固定してしまった時の閉そく感と、ヒエラルキー構造に繋がる危険性も指摘され、
強すぎる負い目感がもたらす怒りや負担感、などについてまで話は深まっていきました。
終盤に、世界的ベストセラーとなった「負債論」の論旨の紹介がありました。その内容がこの日の話し合いに重なるところも多く、対話の締めくくりとして相応しく感じられました。


この日のお菓子は、これ以外にも参加者の方の手作り餡
入りのあんぱんがあり、おトクな回になりました。
「 教会 de 哲学カフェ 」第 20 回、8 月 30 日() に開催しました。

哲学カフェ第20回を終了しました。初めてのご参加を含む7人で、「 苦手 」をテーマに話し合いました。見えてきたことは、自分の意志の力で克服できる・克服すべき「苦手」と、自分ではどうすることもできないで、そのことに押し潰されてしまうような類の「苦手」との二種類で、敢えて苦手であることをその人なりの生き方としてそのままにしてよいケースもあるのではないかという方向性も出ました。「 俺あの人、苦手なんだよねー 」って言う場合の苦手意識のあり方についても話されました。皆様のご参加に心から感謝申し上げます。次回は9月27日木曜日19時?20時の予定です。
「 教会 de 哲学カフェ 」第 19 回、7 月 26 日(木) に開催しました。

「 教会 de 哲学カフェ 」第 18 回、6 月 28 日(木) に開催しました。

「 教会 de 哲学カフェ 」第 17 回、5 月 24 日(木) に開催しました。
テーマ「年を取ることの不安と希望」

初めてご参加下さった方2名を含めた10名で、多様な観点から活発な対話が行われました。経験談も多く、不安な中にも様々な希望の芽を見い出せた会になりました。1時間半の間に出された対話のかけらを、牧師がひとつひとつ大切にすくい上げて、1枚の黒板に表現しています。

「教会de哲学カフェ」第14回、2 月 15 日(木) に開催しました。

二階に会場を移して開かれた磐上教会哲学カフェは、
合計11名の参加者でした(風邪で欠席がお一人)。
沢山の方々が来てくださって本当にありがとうございます。
「 孤独について考える 」とのテーマで、しかし、とても賑やかに′黷闕いました。
礼拝堂が補強工事中につきリビングの集会室で、という臨時の効果も相俟ってか、これまでにも増して打ち解けた雰囲気で四方八方に会話が広がって、
閉会時間の後まで話題が尽きず話し込んだ回となりました。

参加者皆様の経験から、また考えておられることから、色々な発言が出されました。
孤独、寂しい、「孤独死」、「お一人様」、地域で挨拶や笑顔を欠いたディスコミュニケーションが生む孤独、孤独が他人の目から「かわいそうなこと」だと見られること、コミュニティからの孤立・疎外という自ら望まない環境下での孤独、そして、「死」は究極の絶対的な孤独(看取ってくれる人の有無にかかわらず)というハイデガー的な孤独観。
今回参加者のお一人は、御母堂様を見送って御葬儀を済まされたところで来てくださり、「死」と孤独について、自然と話が深まりました。

孤独という言葉の持つそもそも否定的なニュアンスについても、話すうちに、色々な捉え方が見えて来ます。
例えば子どもの感じた孤独、また、子どもには大人が失いがちな孤独への耐性もあること。田舎の親戚づきあいが、あまりに近く濃密過ぎて、孤独なほうが楽に感じること。独居の高齢者がいつも必ず寂しいとは限らないこと。家族が身近にいても感じる孤独。財産に不自由しないのに自宅で孤独死したケース。そもそも「孤独死」とは何をもってそう呼ばれるのか。
一人旅、独りユニバ、独りカラオケ、居酒屋独り呑み、孤独のグルメなど、好きで選んでいる孤独の良さもあります。「自己愛」と孤独の関係という話も出ました。
参加者皆様の多様なお話を伺いながら、アイザイア・バーリンの『自由論』(1969年)で定義される「消極的自由」が思い浮かびました。つまり外部からの制限や強制・干渉が無い状態を、バーリンは個人が能力を存分に発揮し特定の目的を果たす積極的自由と区別して、消極的自由と呼んだのですが、そうした自由の中でも、孤独の様態ということが、なお一様ではなく、人によって、また状況によって様々な捉え方があることが見えて来ます。
「孤独」は今の社会で高齢、独居生活、地域や職場などコミュニティでの孤立など誰もが直面する解決の難しい問題のように見なされますが、今回の哲学カフェのようなざっくばらんな会話をすることによって、新しい考え方の糸口が色々あることが見えてくると思いました。
参加者のご発言で「孤独は自分が思うこと」とあったように、孤独であることは所与の事態ではなく、その事について発想し、新たな捉え方を生み出してゆくことのできる事柄なのだと改めて感じました。
昨日のカフェは通例の黒板に書くまとめをしなかったので、感想を書いておこうとしたら、長文になってしまいました。
御参加下さったお一人お一人に心から感謝申し上げます。
次回は3月22日木曜日19時からの予定です。どなたでもお気軽にお越しください。
11月 30日(木) 教会de哲学カフェ 第 11 回を開催しました。
11 月のテーマは、「 創造する力 」でした。
今回は「〜は、〜か?」のような問いの立て方をせず、「想像する力」というテーマでした。シンプルで、抽象的にも、また具体例をあげても話を広げられるようなテーマ設定だったと思います。
まずそもそも「想像する」とはどういうことか、について、改めて問い直すと、人によってそのとらえ方が多様であることがわかります。
ある人の意見は「空想」、つまり現実にないこと、特に現実に存在し得ないものを思い描く点にバイアスを置いて想像することをとらえる。これは幽霊とかファンタジックな物語における妖精などのキャラクター、果ては「神」ということも、存在し得ないものへの想像というカテゴリーに入るでしょう。(これは宗教否定ではありません。神を「存在する」と定義することは不可能とされています。)
ある人の意見は想像のバイアスを、時間的に、未来像を思い描くことに置いている。これは将来に対する意欲とか希望を生み出す想像行為でもあるし、逆に、将来への不安や絶望という、希望を生まない想像にもなり得る。悲観は、想像力の欠如とも言えるのではないか、など。
ある人の意見は、入ってくる情報(見る、聴く、触るなど感性で得るもの)を受け取ることの「幅の広さ」のような感じで想像行為を捉えている。その際に、美しさ、不思議さへの感動とか、絵画(有名な美術ではなく、例えばハンディキャップを負う人が描いたアマチュア画)を観るときの興味、関心の強さ、熱心さということを基点に想像行為を捉える場合と、入ってくる情報や知識、現実に見て・経験していることについて自分の知識の助けでそれらの受け取った事柄を認識する精神的活動の中で、認識を「造り上げ」対象事物を大づかみに把握することを「想像」と捉えている。この視点からさらに、統合失調症の場合は受け取った情報に対処できなくなり知覚、聴覚、視覚的に経験したことが自分に勝手に「入ってきてしまう」のであり、いわゆる妄想は「想像する」行為と区別されるという指摘も出ました。
ある人の意見は、想像とは目には見えない(感性で知覚できない)人の気持ちに関心を寄せ、他人の考えや、何を望んでいるのかを理解しようとする営為として「想像」を捉えている。この場合は相手への関心や友情などの情愛の熱度として「想像する力」だと考えられる。目に見えないものに価値があるという基本的考えを根底に置いて、想像するということを理解しています。これは対人関係における人間力であると共に、例えばテレビドラマや小説というフィクション作品に共感することや、実際に経験してはいない過去の歴史(戦争体験など)について興味関心を抱いて、自分のことのように共感し、理解するという想像力にもつながります。
目には見えない、知覚できない感情や価値あるもの、人の気持ちや心を感受するということと、芸術作品におけるなんらかの普遍性を共感することとは通底しているのだということを、考えさせられました。この視点から気付かされたのは、想像するということを、ただ単純に存在しないものを思い浮かべるか具体的なものを思い浮かべるかの二者択一で考えることはできない、ということでした。参加者のいろいろな発言をうかがっているうち、ぼくは、近松門左衛門の「虚実の皮膜」ということ、芸術における美は実際にないけれども非存在でもない皮膜のようなところに存するという考え方を思い出しました。
これらの見解は参加者皆さんの実感や経験から具体的に提出されたもので、こうした対話を通して「想像すること」の創造的な意義、とでも言うべきか、積極的な価値に気付かされました。
また、哲学史上の「想像」についての議論である、カントが『実践理性批判』で規定した感性と悟性を繋ぐ「構想力」をさらに『判断力批判』で展開する、「産出的構想力」だとか「構想力と悟性の遊動」のような抽象度の高い事柄を理解する助けになる発言が、けっこう沢山あったと思います。こう書くとまるでとんでもなく難しい会話だったかのようですが、そういう意味ではなく、経験や実感から血肉になっている会話が、なかなか深く、考えさせられ、面白かったのです。難しい事柄も話しつつ、「SNSは”忖度”だらけ」なんていう名言?も飛び出したりしました。
アドベントの近づく寒い夕べにお集まり下さった皆様、本当に有り難うございました。今回は愛知県に在住で以前に参加されたことのある方も、リピートで来て下さいました。
(成田いうし)
10月 26日(木) 教会de哲学カフェ 第 10 回を開催しました。
10 月のテーマは、「 『 生きがい 』とは 」でした。

今回のテーマは「 『 生きがい 』とは 」でした。その人の価値観としての「○○が私の生きがい」という枠を超えて、「幸福感、達成感を得られること」「誰かの役に立っていると感じられること」「自分を肯定できる、無条件に受け入れられていると感じられること」など、人生に対する肯定、積極性を生きがいと理解する視点が出されました。また、達成する目的を持っている状態を「生きがい」とするなら、必ずしもあらゆる人が常に積極的な目的意識を持っているわけではなく、だからといって目的意識のない人が「生きがいがない」というのもおかしいのではないか。他人と比べて自分の生きがいを計るべきでもない。今、特にこれという生きがいを持たない人も、今与えられている時を一日一日丁寧に生きていくだけで、自分を肯定できるという考え、また、今までと異なる価値観・好みに視野が開かれること、以前に興味がなかったことを「面白がる」ところに生きがいの原理を見出す、など、多角的に「生きがい」について語り合われました。フリートークの終盤には、高齢者の生きがい対策、老化や肉体の衰えに伴って「生きていて何の楽しみもない」という状態になったとき(もっとも、そのように語る老人は明るく達観して語っているとも言える)のこと、また、中高生や若い人の自己肯定感が低いケース、孤立し困難に陥るときに他人に「助けて」と言えない雰囲気の社会が、生きがいを感じにくくさせているのではないか、青春期に「どう生きるべきか」悩み苦しんだ経験にはそれ独自の価値があり、その後の人生の生きがいを生む力になっていること、など、テーマをより深める話し合いでした。哲学カフェは結論を生み出すトーキングではないものの、その人が気負うことなく「生かされているのがうれしい」という充実感みたいなことを、生きがいと言えるのではないか、というところにテーマが収斂したようにも思います。ご参加くださった皆様の積極的なトークに、今回も心から感謝申し上げます。次回は11月30日(木)夜7時からの予定です。テーマを後日、ご案内します。( 成田 いうし )
9月 28日(木) 教会de哲学カフェ 第 9 回開催しました。
9 月のテーマは、「 『 和 』『 空気 』『 雰囲気 』ってなんだ 」でした。

「場の空気を読む」とか「雰囲気に合わせる」ことの是非について、また「いい空気・いい雰囲気」を創り出すことの大切さなど、多面的にお話が出されました。参加者皆様が積極的に考えを語って下さり、本当にありがとうございました。
次回10月26日木曜夜7時からです。
8月31日(木) 教会de哲学カフェ 第8回開催しました。
8月のテーマは、「 『 許す 』 ということ 」でした。


10名の参加者お一人お一人から、「 ゆるす 」という、なかなか一筋縄では語れないテーマについて、文字通り一筋縄ではなく多様な角度から体験や考えを語り合いました。
事前案内のときは「 許す 」という漢字を用いましたが、ご参加のおひとりから「 許す 」は行政用語では許認可の意味に限定されるので、個人の倫理道徳の範疇で言われる「 ( 相手を )ゆるすこと 」の意味には当たらないとの指摘を受けました。
日本語の漢字でも 「 ゆるす 」 に5〜6通りあるようです。 同じ一つの言葉でもそこから各人各様のイメージがあります。
こどもの喧嘩で「仲直り」すること、
仕事の上下関係で部下の ミス等を「大目に見てやる 」こと、
自分に対して受け容れることのできない振る舞いをした相手を「 ゆるしたくないがゆるす 」こと、
「ゆるせない」とか「ゆるさなければならない」という自分の主観の問題として、など、
多様な視点から語られ、1時間30分では話し尽くせない感があった回でした。
参加くださった皆様に心からの感謝を申し上げます。次回は9月28日木曜19時からの予定です。( このページのトップに案内 )
7月27日(木) 教会de哲学カフェ 第7回開催しました。
7月のテーマは、「競争することは良いことか悪いことか」でした。

「良い」とも「悪い」とも決められない問いに、様々な角度から活発に意見や体験談が出され、「競争」について掘り下げていきました。
今回も終わった時には黒板は皆の言葉で埋め尽くされました。
ご参加下さった皆様のおかげで、良い会になりました。感謝致します。

参加者はクリスチャンでない方が半数、お一人で来場くださる方ばかりです。
いかなる勧誘も一切ありません。対話を楽しむ自由な会ですので、
どうぞお気軽にご参加下さい。
6月22日(木) 教会de哲学カフェ 第6回開催しました。
6月のテーマは、「なんのために働くか」でした。

開始前の様子。
受付でお菓子を選んで、好きな席についていただきます。
今回も満席になりました。
終盤に、見学したいという中学生を連れて来て下さった方がありました。
若い世代の中にも興味を持って下さる方がいることに、大きな喜びを感じました。

今回も黒板に書ききれないほど様々な意見や経験談、考えが出されまし た。
5月25日(木) 教会de哲学カフェ 第5回開催しました。
5月のテーマは
「怒り」とどう付き合いますか?」

でした。
今回もおかげさまで満席になりました。リピーターの方も初めて参加下さった方も、互いの話を尊重して聴く姿勢と、率直さを持って対話に臨んで下さいました。
夫婦喧嘩などの日常生活における怒りだけでなく、私憤や公憤について、心理学やアンガーマネジメントにも話題は及び、あっという間の1時間半でした。
参加下さった皆様に感謝致します。

4月27日(木) 教会de哲学カフェ 第4回開催しました。

4月のテーマは
「今、手に入れたいもの
手離したいもの」でした。
新年度、新学期という時節柄、抱負や断捨離といった身近な内容になるかと思いましたが、参加者皆様が積極的に多方面からテーマを掘り下げて下さり、
このテーマは人それぞれの価値観や人生観の反映であることに気付かされました。
予想以上に対話が深まった会となりました。
参加して下さった皆様に感謝いたします。

おかわり自由の飲み物とお菓子。
3月23日(木)、教会 DE 哲学カフェ
第3回 開催しました。

毎回、ご好評をいただいて満員となっている「教会de哲学カフェ」。今回もテーマに沿って活発な対話が交わされました。
「哲学」と言うよりも、参加者それぞれの仕事や学校生活や地域社会等での生活を通じて得られた、
率直な意見や経験談がたくさん出されました。楽しく有意義な時間を分かち合うことができました。
ご参加下さった方々に感謝申し上げます。
初めて教会に来られた方も多くおられます。
今後もクリスチャンでない方々も気軽に集っていただけますように、願っています。
2月23日(木)、教会 DE 哲学カフェ
第2回 開催しました。
2月23日(木)19時より、磐上教会 DE 哲学カフェ vol.2 (第2回目)を開催いたしました。
出席者は定員を超える13名。10〜20代の学生、青年から70代までの幅広い層の方々が出席下さいました。
今回のテーマは「 好きな言葉、嫌いな言葉 」 。
家族の会話、地域社会で、職場で、大学研究室で、就職活動で、様々な人間関係と様々な状況の中で出てくる具体的な
「言われて嬉しい言葉」「言われたくないこと」「勇気づけられた名言」などなどをめぐって、
互いに年齢も立場も多様な出席者から互いの人生観、社会分析、世代による感覚の違いなど思い思いに語られ、時間を超過して話が弾みました。
皆様のご参加に感謝し、次回もお待ち申し上げます。
次回vol.3 は3月23日(木)19時、テーマは追って案内いたします。お申し込みはこのHPからも可能です。


「教会de哲学カフェ」Vol.1、満員の盛況でした。ありがとうございました。


昨年12月にお試し版を行ったあと、1月26日から正式に「教会de哲学カフェ」がスタートしました。
今回は10代から60代の、様々な立場の人達が、「友達」について語り合いました。
参加して下さった方々から、有意義な時間だった、楽しかった、参加して良かった、との声をいただきました。
始まったばかりの小さな会ですが、至らなかった点など改善しながら、より良い会にしていきたいと願っています。





